【5】朝の連続派遣小説『へばりつく』

【5】

「本当ですか?ありがとうございます」

サイオン社のロビー奥にある打ち合わせスペース。ガラス張りの壁面に沿うように配置されたいくつかの丸い会議卓は落ちかけた陽射しで半月のように色をつけている。会議卓を挟むように座り、先日の交渉結果を伝えると清水敦子はちょっと驚くほど大きな声で答えた。

「ええ、そうなんですよ。清水さんの現状を訴えたら、すぐにでも他のチームに移ってもらおうということになって。それにここだけの話ですがベテランのお三方にも厳しい指導が入りそうです」

実際それほど難しい交渉ごとではなかった。自分の手柄のように恩着せがましく伝えるよりも、彼女のこれまでの仕事ぶりと派遣先を持ち上げるような表現で伝える方が適当だろう。

「派遣先の課長さんが物分かりの良い方で助かりました。それもこれも清水さんの普段の働きのおかげです。派遣先からとてもご評価を頂いているのが伝わってきましたよ。私としても鼻が高くて。ありがとうございます」

「いえ、そんな。私なんて毎日淡々と仕事をしているだけですから。田中さんが色々と交渉をしてくださったおかげです。こんなに早く決着がつくなんて。ありがとうございました」

彼女は何度も私に礼を言ったあと「すみません。ちょっと会議に同席しなければいけなくて」とすまなそうにしながら慌てて職場に戻って行ったのだった。

さて、今日のアポイントはひと段落した。メールの対応や事務仕事がいくつか残っているが、これは近くの喫茶店でやってしまおう。欲しくもないのに会社から押し付けられたノートパソコンが鞄の中に入っている。

派遣会社の営業マンの仕事は派遣先企業からオーダーをもらうために営業活動を行うこと、そのオーダーに派遣社員を紹介して人数を増やし売上利益を上げること、そして就業している派遣社員にかかわる様々な厄介ごとを解決することだ。

法人営業とは言いつつも、派遣社員から我々営業マンへの連絡は仕事が終わり、家事も済ませて自宅でひと段落というタイミングであることも多い。つまり日中の営業活動に加えて夕方以降に派遣社員から「相談」と称した愚痴や文句の電話に長々付き合わされることも少なくないということだ。

ここ最近はスマートフォンやノートパソコンを常時持ち歩くように指示されているが、それはつまり、会社からも派遣先企業からも派遣社員からも二十四時間首輪でつながれたに等しいということだ。昔から常態化している長時間労働やサービス残業がテクノロジーによって裏付けられたという事もできる。

そんな苛立ちで悶々としつつ、格安の喫茶店でノートパソコンを広げ、アメリカンコーヒー一杯で二時間近く粘りながら律儀に仕事をこなしていく。時間も遅いし、今日は会社に寄らずにそのまま直帰しよう。

時刻はもう20時、帰宅ラッシュはひと段落したものの駅のホームはまだ混雑している。後ろから押し込まれるように電車に乗り込み、「すみません」を連呼しながら入り口近くに固まる人混みをかき分けてなんとかつり革につかまることができた。

今日もジェットコースターに乗ったような一日だった。明日から就業する予定だった派遣社員が突然辞退したいと言い出してお客に謝りに行ったり、仕事中に頻繁に居眠りをするという派遣社員を注意しに行ったり、暇で仕方ない役職定年後の担当者につまらない用事で呼び出されて一時間近く世間話に付き合わされたり。

電車の窓に映る疲れ切った自分の顔をぼんやりと眺めながら、今日あった出来事を断片的に思い起こす。家に着く頃には子供達は寝てしまっているだろうか。小学校高学年になったとはいえまだまだ甘え盛りの息子たちの顔を見てから一日を終えたいものだ。

スマートフォンを取り出し、家族で行った夏祭りの写真を見ていると聴き慣れた最寄駅の名前を告げる車内アナウンスが聞こえた。機械的に電車を降り人の流れに従ってホームを歩いていると胸元で振動音が聞こえる。確か胸ポケットに入れたのは会社のスマートフォンだ。

「もう22時だっていうのに、なんで電話してくるんだ」軽い舌打ちとともにスマートフォンの画面を見ると「清水敦子」と表示されている。夕方に会ったばかりだというのにいったい何の用だろうか。明日の対応にしてもいいが今日のうちに片付けてしまった方が気分的にスッキリするだろう。駅から駐輪場に着くまでにやっつけてしまえばいい。

「はい、田中です」不機嫌そうな様子が伝わるように気持ち低い声で電話に出る。こんな時間に何度も電話をかけてこられては堪らない。

「あ、すみません。清水です。遅い時間に申し訳ありません。少しだけお話し大丈夫ですか?」

全く大丈夫ではないがそうもいくまい。「少しなら大丈夫ですよ」と伝え、会話を促す。

「今回は本当にありがとうございました。色々と交渉してくださって。今日新しいチームのSVの方に声をかけられて、早速今日の夕方異動になりました」

「それでちょっとご質問なんですが、新しいチームは田中さんが担当ではないって聞いたんですが本当でしょうか」

サイオン社は私の会社にとってかなり大口のお客だ。その中でも池袋のコールセンターは百名以上の派遣社員が就業している大事な取引先。いくつか部署を分けて私と部下の木村で担当しており、彼女が新しく配属されたチームは木村が担当をしているのだ。それにしてもわざわざそんな事を聞くために深夜に電話をしてきたのだろうか。

「ええ、そうですよ。うちの木村という女性の営業が担当をしてまして・・・」

「あのっ!」私が話し終わらないうちに、彼女は少し焦ったような口調で口を挟んだ。

「あの、私、今回のことで田中さんのことを頼りになる方だなと思って、できたら今後も田中さんに担当をして頂きたいんです。新しいチームの方々は悪い人ではなさそうなんですけど前のチームのことでどうにも不安で・・・何とかならないでしょうか」

評価をして貰えるのはまんざらでもないが、正直過大評価に感じてしまう。それにこんな時間に思い詰めたように電話をしてくるだなんて、なんというか少し変わった人なのだろうか。

他のベテラン営業マンにバトンタッチするのであれば躊躇なく彼女の申し出を断るのだが、部下の木村に引き継ぐとなれば、何かあったときの尻拭いは結局自分に返ってくる。ここはしばらく私が担当を続けて様子を見ることにしよう。

「わかりました。本当は別の者に引き継ぐのですが、ご不安なようでしたらしばらく私が担当をさせて頂きます」

彼女は何度も何度もしつこいくらいに礼を言ってやっと電話を切った。これまであまりかかわる機会がなかったので気がつかなかったが、やりとりをすればするほど彼女への印象が変わっていく。

駐輪場につき、もう十年近く使っている妻からのお下がりの自転車を漕ぎ出すと、また胸元のスマートフォンが振動した。この振動のしかたは確かメールの着信だろう。

《こんばんは清水です。先ほどは遅い時間にお電話申し訳ありませんでした。田中さんに引き続き担当をして頂けると言うことで安心しました。今後ともよろしくお願い致します》

本人は丁寧な対応のつもりなのかもしれないが、こんな時間に念を押すようにメールまでよこされると戸惑うばかりだ。

夏が終わり秋も深まってきた。日によっては肌寒く、夜は寒いと感じるくらいだ。高架橋の向こうから吹き抜けた風が背後から吹き付け背筋が震える。このうすら寒さは夜風だけが理由なのだろうか。

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