【9-1】朝の連続派遣小説『へばりつく』

【9】

新宿駅は工事中ということもあって狭いホームは人でごった返している。いつも思うが、よく人がはじき出されて線路に落ちたりしないものだ。

警備員がのっぺりとした口調で足元に注意をするようにアナウンスを繰り返す。横一列に十数台並んだ自動改札機は左右数台が駅を出る改札、真ん中の数台が駅に入る改札。人の流れがかき混ざってコーヒーにミルクを入れたあとのようだ。

まだ半分寝ぼけていた私は、急な警告音にはっと我に帰る。どうやら定期が切れていたようだ。後ろから若いサラリーマンの舌打ちが聞こえた。朝から争っても仕方ない。精算を終え、都庁方面の人の波に乗ってオフィスに向かった。

「田中君、少しいいかな」

机の下にカバンを置くと同時に上司の永岡に呼び止められる。一番奥にある彼のデスクに向かおうとすると彼は顎をしゃくりながら会議室に目線を向けた。なにやら皆には聞かせられない話のようだ。

永岡から叱られるようなヘマはしていないし、人払いをするとなれば人事の話だろうか。定期異動にしては時期がおかしいから、誰かが急に辞めるという話なのかもしれない。

「実はね、昨晩遅くにオフィスに電話があったんだ」少し勿体ぶった様子で間を取りながら話し始めた。

「清水敦子さんって知っているか?」彼からその名前が出てくるとは思わなかった。昨晩電話があったということは私宛の電話ということだろうか。私の携帯番号は知っているはずなのに。

「田中君の上司に代わって欲しいということでね。一時間くらい話したんだが、要するに田中君を心の支えにしているから担当を変えないで欲しいっていうお願いだったんだよ」

永岡部長とは同じ営業部の上司部下だが、その関係は少し微妙なものだ。私自身はさほど意識をしていないが社内の派閥関係でいくと敵対をしている派閥の部長ということになる。

出世に欲のない私は、極力そういった社内のいざこざに巻き込まれないように注意をしていたが、課長に昇格してからは無関係ではいられなくなった。仕方なく昔からお世話になっている上司や先輩がいる派閥に属している。しかし決起会や親睦会と称する年に数度の飲み会やゴルフコンペにも参加したことがなく幽霊部員と言っていい存在だ。

問題は永岡が必要以上に派閥を意識しているということだ。少しでもこちらの尻尾を掴むとネチネチと攻撃をしてくる。清水敦子がなにを言ったのかわからないが、彼からすれば一度は私を吊し上げてやろうと思っていたところに、いいネタが入ってきたと思ったに違いない。

「いえ、それがちょっと彼女には困っていまして・・・」私が説明を始めようとするのを待たずに永岡は話をかぶせてくる。

「なにか個人的な相談に乗ってもらっているとか言っていたけど、心当たりはあるのか?」

なるほど、彼は私の話を聞くつもりなどないのだ。私が清水敦子に手を出したと決めつけ、痴情のもつれで彼女が上司宛に電話をしてきたとでも思っているのだろう。思えば唇の端が品なくニヤついて見える。

永岡への苛立ちとともに、自分の詰めの甘さを反省した。事前に小出しにでも清水敦子との出来事を説明しておけば、こんな不愉快な時間はなかったし、彼も与件を踏まえて彼女に対応できただろう。

「お時間をとらせてしまって申し訳ありません。清水さんとは個人的な関係はないのですが、派遣先での人間関係のトラブル解決をしたあとから急につきまとわれるようになってしまって」

「つきまとわれる?」

「えぇ、少し言いづらいんですがストーカーと言いますか、それに近い状況だと思っています」

「こいつはなにを言っているんだ」といった表情でまじまじと私を眺めている。それはそうだろう、私だって中年になってまさかこんな被害を受けることになるとは思わなかった。少し苦笑いしながら無言の問いかけに答える。

「あの、もし誤解をされていたら嫌ですのでお伝えしておくんですが、彼女と私の間に特別な関係はありません。派遣先でのトラブル解決をきっかけに急につきまとわれるようになって、ここのところ何度も呼び出されたり、おかしな内容のメールが来たりで困っていたんです」

説明すればするほど言い訳めいてしまう。ここは現物を見せたほうが早いだろう。私はスマートフォンを取り出し、彼女から連続で届いたメールをコマ送りで見せていった。

《仕事のことで相談があるので今晩会えませんか?》
《この前の喫茶店はいかがですか?》
《もし田中さんがよろしければお酒が入ってもかまいません》
《田中さんしか頼る人がいないんです》
《もし良かったら夫とのことも聞いてもらえませんか?》
《田中さんのことを一番信頼してます》
《この前お伝えし切れなかったこともお話ししたいです》
《今日会えませんか?》
《私と会うのは嫌ですか?お返事ください》

「これはちょっと怖いな」永岡は少し表情を変え、呟くように言った。

「この〈夫のことも聞いて欲しい〉っていうのはなんなんだ?」

「えぇ、ご主人と離婚をされるそうなんです。多分そこが彼女のいう個人的な相談ということなんだと思います。私は一切取り合っていないんですが、彼女の中では相談に乗ってもらっていることになっているんですね・・・」

「実は先日このメールで彼女に呼び出されて仕方なく就業先に行ったんです。前に喫茶店で話したときになんというか・・・告白めいた話をされたので、そういう個人的な話が出ないように就業先の方がいいと思いまして」

「ああ、その方がいいな」

「離婚をきっかけに転居をすることになるんだそうですが、なぜかそこに私が絡められていまして。〈田中さんが担当のままなら今の職場に通いやすい引越し先を考える〉とか、〈担当が変わるなら今の職場を辞める〉とか。私は自分の一存では決められないと逃げたので、おそらく昨晩の部長への電話はその流れかと思われます」

「なるほどよく分かった。それであれば昨晩のうちに私に報告をしておくべきだな」

「申し訳ありません。おっしゃる通りです。それにしても部長、だんだんとエスカレートしていくような気がして怖いんです」

この際、清水敦子の担当を変えてもらう流れを作ってしまおう。彼女に「担当は上司が決める」と言った話とも辻褄が合う。後任を誰がやるかは別として、まだストーカー行為と呼べるかどうかという初期段階で解決を図るのがセオリーだろう。

会社として私とは接触させないという強い意志を示せば彼女だって冷静さを取り戻すかもしれない。永岡は私の投げかけに返事をせず、少し考え込んだような様子で押し黙っている。

「実は昨日清水さんから〈もし担当を変えるなら派遣会社が誠意ある対応をしてくれないと派遣先に苦情を入れる〉って言われたんだよ。普段からそんなに過激なことを言う人なのか?」

「いえ、私に対しては過激な物言いはないです」

「そうか、じゃぁしばらく様子見だな。それとこの清水さんは本来、木村君が担当している部署じゃなかったか?」

「はい。本当はすぐに引き継ぎをしようかと思ってたんですが、人間関係のトラブルがあっての異動でしたからすぐに担当を変わるのも不安かと思いまして、しばらく様子見で私が担当をしていました」

「なんだ、じゃあその時点で担当を変わるチャンスがあったんじゃないか。そこで担当を変えていればこんな問題にはならなかったんじゃないか?」

「そう言われてしまいますとなんとも言い難いのですが、私もまさか清水さんがこんな言動をする人だとは思っていませんでしたので・・・」

「それは君の見極めが甘かったんだよ」

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