永岡は私の不安に耳を貸すどころかミスをあげつらうことに終始している。上司がこれでは今後も会社からの支援は望めないだろう。それならそれで先を睨んで彼から一つ言質を取っておこう。
「部長、情けない話なんですが、この清水さんが今後どうエスカレートしていくのか怖くて、できたら彼女の担当を一時的でもいいので別の方にして頂けませんでしょうか?」
永岡は厚ぼったい唇を真一文字に結んで答えようとしない。明らかに私の要望が気に食わないのだろう。私は彼を怒らせることを承知でもう一言付け加えた。
「この手の対応は早めの対策が必要だと聞きますし、過去にウチの女性営業が担当の派遣社員から付きまとわれたときも早々に営業担当を変えたんです」
「そんなことはわかってる。ただ君は課長だし立場が違うだろう。誰に引き継ぐっていうだ?木村か?部下に押し付けるようなまねはできないだろう」
私としては上司である永岡がいったん引き受ければいい話だと思っていたが、全くそんな発想はないようだ。まあいい、必要な言質は取れた。のちのち事態が深刻化した時には大きな判断ミスとして蒸し返すことができる。
「そうですか。考えが足りませんでした。申し訳ありません」心の中で舌を出しつつ、心底反省しているようなふりをする。
「まぁ、怖がるのはわかるよ。君が彼女と接する中でどうしようもなくなったら私も対応するから安心しなさい。清水さんには田中君が担当を続けるかどうかは少し考えさせてほしいって言ってあるから、しばらく様子見をしてからでも遅くはないだろう」
そう言って席を立ちさっさと会議室から出て行ってしまった。どうしようもない事態にならないとなにもしないつもりか。とんでもないお飾り上司だ。
ぶつぶつ言いながら席に戻ると隣に座る木村が外出から戻って来ていた。私を見つけると、何か話したそうに目線を送ってくる。
「田中さん、部長から呼ばれたのって昨日の清水さんからの電話の件ですか?」心配そうな顔で私を見ている。
「ああ、何か知ってるの?」
「昨日たまたま遅くまで会社にいたんですけど、部長がずいぶん話し込んでて、どうやら聞いていると清水さんかなって。部長が・・・なんていうか田中さんと清水さんが男女の関係があるみたいに話してたから気になって」
私の席の方に身を寄せてヒソヒソと小さな声で話しているつもりのようだが、地声が大きいので部長の耳まで届きかねない。
「そうか、わかった。ちょっとあとで外から電話するから、そのとき教えてくれるか」
11時に予定している商談のために手早く外出の準備をする。結局、朝の貴重な一時間を清水敦子の件で浪費してしまった。エレベーターが閉まるのを待っていると、木村が滑り込むように乗り込んできた。
「どうしたんだ、君も外出?」
慌てて私を追ってきたからか、しまい切れていないノートをバックに押し込みつつ、ロビーに降り立ったと同時に木村は堰を切ったように話し始めた。
「田中さん、新宿駅ですよね?そこまで話せます?昨日部長ひどかったんですよ!」
「ちょっと落ち着けよ。どうしたんだ?例の清水さんの電話の件?」
「そうですよ!昨日の夜って結構社員残ってて、部長と清水さんの電話もみんなに聞こえちゃってたんですけど、部長ったらわざと隣の高田部長にも聞こえるように大きい声で話してたんです」
いまいち要点が見えてこない。高田部長は隣の営業部のボスで、昔からお世話になっている人だ。私が属することになってしまった派閥の中心メンバーであり、永岡とは営業部長としてライバル関係にある。
「高田部長に聞こえるようにって、何か意味があるのか?」
「もう、なんでわかんないんですか。清水さんと電話で話しているときにわざと田中さんのことを悪く言って、間接的に高田部長にプレッシャーかけたんですよ。わざと大きい声で〈田中がご主人との離婚話の相談にも乗らせて頂いているんですか?何か出過ぎた発言でご気分を害されたりはありませんか?〉とか〈そこまで田中が担当を続けることにこだわられるというのは何か特別な思いがおありなんですか?〉とか、そこだけ聞いたらみんな勘違いするだろって言い方ばかりして」
なるほど。社内では高田部長の子飼いだと思われている私が、担当の派遣社員とスキャンダルめいたトラブルがあったように公衆の面前で貶めることで高田部長にプレッシャーをかけるということか。本当に下らないことを考えるものだ。
「そういうことか。さっき永岡部長と話したとき感じたけど、明らかに俺が清水さんに手を出したんじゃないかって疑ってたもんなあ。その誤解は解いたけど、昨晩そんなことがあったのか・・・」
彼女は前から永岡が大嫌いなようで鼻息が荒い。昨晩の卑怯な行いに、私よりも腹を立てているようだ。
「ありがとうな。高田さんには俺から言っとくよ。しかし永岡さんもねちっこいなあ」
「それにしても部長との話で清水さんの件はどうなったんですか?私引き継いだ方がいいですか?」
「いや、部長に言われるまでもなく今の状況で君に引き継ぐのはやめとくよ。正直彼女がどう動いてくるのか読めないから怖くて渡せない。部長からは〈課長なんだからお前が自分でどうにかしろ〉って言われちゃったしね。さて、どうするかな」
「本当ですか?最低ですね、アイツ!」
まあまあと木村をなだめつつ、私は山手線、木村は都営新宿線の新宿駅に向かうため途中で別れたのだった。