【16-2】朝の連続派遣小説『へばりつく』

「これってアザ?」コクっと小さく頷く彼女の手を取り、しげしげとアザの様子を確認する。「旦那さんに殴られたの?」と聞くと、「殴られたり、つねられたりするの」と言う。

「なんでこんなになるまで放っておくの!ご両親には相談したの?」動揺して、何も考えずに詰め寄ってしまったが、確か彼女は片親だと聞いた。そして母親は若年性の痴呆で施設に入っていたはずだ。

「ごめん、お母さんはそれどころじゃないよね」彼女は少し寂しそうに頷いた。

「でも、なんで私に相談してくれたの?」それほど仲が良かったわけでもなく、数年間音信不通だった私にわざわざ連絡をしてきたことが不思議だった。

彼女は少し戸惑った様子で、気まずそうに話し始めた。どうやら新卒研修の一環として会社の保養所で合宿をしたときの打ち上げで、酒に酔った私が、「ウチの父親ってDV気味なんだよね」と打ち明けたことがきっかけだったようだ。そのときのことを覚えていて、何かアドバイスをもらえるかもしれないと考えたらしい。

確かにそんなことを言ったかもしれない。ただ、我が家のそれはせいぜい激しい夫婦喧嘩といった程度で、全身にアザを作るような激しい暴力ではなかった。彼女の場合は夫婦喧嘩ではなく、夫からの一方的な暴力だ。

こんなことが許されていいのだろうか。いまだ世の中は男女差別がまかり通っている。これまでは家庭内暴力はあくまで家庭内の問題とされ、家庭という密室で行われるものだった。夫からの暴力が犯罪であるという社会的な認識は最近になってやっと定着してきたと言える。

しかし男女差別は夫婦間の問題にとどまらない。現に私だってその被害者だ。事務職として入社してから十数年、処遇は理由なく下がる一方。どう考えたって、私の方が男どもより仕事ができるのに、採用時の職種に縛られて与えられる仕事は限られ、活躍の機会はない。

昭和じゃあるまいし、いまだに事務職は寿退社という共通認識はどういうことなのだ。CMなどでは先進的なイメージで売っている大手総合商社の我が社も、内情は昭和の概念で凝り固まった無能なおっさん管理職が牛耳っている男性社会だ。なんとかこの子を助けてあげなければいけない。この子を救うことは自分を救うことでもあるのだ。

「このまま家にいて大丈夫なの?そんなに体中アザだらけじゃ、いつか殺されちゃうんじゃないの?」

DVがエスカレートして妻を殺害してしまったという過去の事件が記憶の片隅から呼び起こされ、お酒の勢いでつい口にしてしまう。しまった、後先考えずに思ったことを口走ってしまうのは私の悪い癖だ。

敦子はいっそう不安そうな表情になり、「どうしよう」と消え入るような声で呟く。

「わかった。そうしたらウチにきなよ。私、一人暮らしだし。ちょうど部屋も一つ余っているから、しばらく居ても大丈夫だよ。ウチにきて旦那さんから距離をとって冷静になってさ、これからどうするか一緒に考えようよ」

半年前まで年下の男性と同棲をしていたのだった。三十も半ばになって、自分が結婚に向かないことはうすうすわかっていた。コツコツ貯めていた貯金を叩いて1LDKのマンションを購入し、猫でも飼おうかなと考えていたとき、たまたま行きつけのバーで泥酔していた年下の男と意気投合し、その男がそのままウチに住み着いたのだ。

いわゆるヒモのような関係だったが、甲斐甲斐しく世話をしてやるのは存外楽しかったのだ。強い結びつきがあったわけではないから、あるときふいっと猫のようにいなくなってしまった。そんな男でも心の隙間を埋めるには役に立っていたようだ。いなくなってみると人恋しくなることも多い。この際、乗り掛かった船だ。敦子をウチに置いてあげるのも悪くないように感じた。

「ありがとう。考えてみる」彼女はそう言って少し涙ぐむ。そして「実はね・・・」と言って再びポツポツと話し始めた。

彼女は今、派遣社員として働いているらしい。親会社の事務処理を下請する私の職場にも派遣社員はたくさんいる。複数の派遣会社から人が派遣されていて、それぞれに営業担当がついているのだ。その派遣社員がらみで何かトラブルがあると、まず営業マンに連絡をするといった仕組みになっている。

話を聞いていると、どうやら彼女の担当の営業マンがとても頼りになるらしい。心から信頼している様子で、話を聞いていると、それは恋心のようにも感じた。密室での夫の暴言や暴力による支配で、どうにかなってしまいそうな彼女にとって、彼は大きな心の支えになっているに違いない。

「そんな人がいるんだ。いいじゃない、頼れる人がいるのは」明るい話題に声を弾ませて答える。夫がいる身で他の男性に恋をするのは浮気になるのかもしれないが、そもそも夫がひどいDV野郎ということなら話は別だ。彼女にとって心の支えになるなら許されることだろう。

「ねえねえ、どんな人なの?」からかい半分で問いかけるが、彼女はモジモジして多くは語らない。ただ、職場で困ったことがあったら、すぐに来てくれて、あっという間に問題を解決してくれた誠実な人だという。今の自分には裏切ったりしない、真面目で誠実な人が必要なのだ、と言うのだった。

「そっかぁ、その人と上手くいくといいね。敦子は恋愛は結構受け身だから攻めなきゃダメだよ」

これまでの恋愛を聞いている限り、いつも相手から告白されて付き合い始めたということが多かったはずだ。私達ももう三十代半ばだし、相手もそれなりの歳みたいだから、小娘みたいに奥手でいては進む話も進みやしない。

「仕事帰りとかに会えないか聞いてみたら?敦子みたいに美人さんだったら向こうも断らないと思うけどなぁ」半ば冗談で言った言葉に彼女は黙りこくってしまう。

「どうしたの?」と聞くと、少し間を開けてから「私、この後、彼のところに行ってみる」と呟いた。その声は小さかったけれど、なにか覚悟に満ちていて、騒がしい店内でも不思議とはっきりと聞き取れたのだった。

「そうそう、その意気だ!いい男を捕まえて、DV夫なんて捨てちゃえ!」

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