【17-1】朝の連続派遣小説『へばりつく』

【17】

「派遣先は彼女に対して特に悪い評価はしていないようでした。と言うのも今のところ勤怠もいいですし、お客さんからの目立ったクレームがある訳でもないので、目をつけられてはいないと言うのが正しいのだと思います」

永岡を前に私は昨日のサイオン社への訪問結果を報告する。今日もいろいろな予定外のトラブルに見舞われ、結局報告をするのは夜のこの時間になってしまった。

日々の努力の甲斐もあって、私の営業成績が良いのは嬉しいことだが、それは担当する派遣社員の数が増えるということであり、それだけトラブルの種が増えるということにもつながる。

特に気をつけなければいけないのは就業開始早々の数週間で、人間関係を含めた職場環境との相性がわかってくる時期だ。派遣だからという訳でもないのだろうが、辞めグセがある人というのは一定数いて、今日もそんなトラブルが立て続けに起こり、あれこれ対応していたのだった。

「そうか、お疲れさま。そうするとこの件は彼女の君への問題行動だけに焦点を絞って対応をすればいいということだな」

「はい。ですので近いうちにまた彼女と打ち合わせの機会を設けようと思っています」

永岡への報告を終え、デスクにと木村に声をかけられる。「田中さん、ちょっとこれってどうやったらいいかわかります?」

すぐにでも自分の仕事に取りかかりたいところだが、部下の木村を始め、何人かの同僚から仕事の進め方について相談を受けているうちにあっという間に21時を回ってしまった。

長年同じ営業部に所属し、オペレーション全体を熟知していることもあって、調べるよりも私に聞いた方が早いと声をかけてくる人は多い。面倒に感じることもあるが、コミュニケーションのきっかけになるし、その人の業務習熟を把握することもできるのでなるべく相手にするようにしている。

メールがたまりにたまった受信トレイを改めて確認すると、未読メールが120件と表示されている。今からこれを全て捌いていくと考えると暗澹とした気持ちになる。今日はなんとか22時にはあがりたい。

手早くメールをチェックし、返信できるものはして、来週に回せるものは「未対応」と名付けたフォルダに移していく。ただの先送りでしかないが今日はさっさと家に帰って、明日土曜日の朝早くから行われる息子のサッカー大会に行く準備をしなければいけない。お弁当は妻に任せてあるから、撮影担当の私は今夜のうちにカメラやビデオの準備を終わらせなければ。「撮れませんでした」なんて言おうものなら一生文句を言われかねない。

なんとか仕事に区切りをつけてカバンにノートPCを詰め込む。あとは週末に帳尻を合わせよう。周りの同僚に「お疲れさま、先にあがるよ」と声をかけて逃げるようにオフィスを出た。

22時ともなると、高層ビルとはいえ人はまばらで、スムーズにエレベーターが到着する。ロビー階のボタンを押し、背後にある鏡で髪型を整える。どうも最近髪が薄くなったように感じる。

ロビーに到着し、駅へと向かう地下道に続く出入り口に向かって歩を進める。今日も本当に疲れた。週末の解放感から徐々に気持ちが仕事モードから切り離されていく。少し余裕ができたのか、普段しないようなことをしてみようかといういたずら心が頭をもたげた。

私は歩みを止めて目線を上に向ける。このビルの天井は最上階まで吹き抜けになっていて、頭を真上に向けてその非日常的な造りをずっと見ているとめまいのようなクラつきを覚えた。こんな変わったデザインのビルに勤めていたんだなあと、あらためて日頃の余裕のなさを感じてしまう。十数秒くらいだったろうか、おかしな感慨に耽りながら目線をもとに戻す。

そこに清水敦子がいた。

ずっと上を向いていたから頭に血が上って目の錯覚でも見ているのかと思った。一歩後ずさって彼女の存在を確かめる。明らかに現実だ。彼女は怪訝そうな表情で私を見つめている。

「大丈夫ですか?」まるでここに自分がいるのが当たり前とでもいうように話しかけてくる彼女。全く予想外の事態に私は頭が整理できない。

「なっ、なんで清水さんがここにいるんですか?」やっと声を絞り出す。

「たまたま近くで友達と食事をしていて、田中さんまだいるかなと思って寄ったんです。そうしたらずっと上を向いているので、どうしたのかなと思って」

酔っているのかいつもと少し雰囲気が違う。馴れ馴れしいというか、彼女の中で私との心理的な距離が縮まっているように感じる。文字にしたら語尾にハートマークでもつきそうな話し方だ。

「そうですか、私も今日は帰りが遅くて。じゃあこれで失礼しますね。お気をつけてお帰りください」意表を突いた登場に動揺がやまない私はそそくさとその場をあとにしようとする。

「あの、田中さん、このあとお時間ありませんか?いろいろとお仕事のことで相談したいこともあって」彼女はくるっと躰をひるがえし、私の進路を塞いだ。

「いえ、今日は遅いですし、明日の朝早くて。来週にしてもらえませんか?」わざと淡々とした口調で答える。

「あのっ、少しだけでいいんです。10分とかでも」必死の形相で声のボリュームも上がる。ロビーのど真ん中でただならぬ様子で問答をしている私たちに、行き交う人たちが好奇の目線を向けてくる。いい恥さらしだ。

「お急ぎの話なら上司の永岡がまだ会社にいますから。私から連絡を取りましょうか?」

意地の悪い顔で答えた私に、彼女は目を座らせる。ここ数回の面談で気がついたが、これは彼女の感情が高ぶったときのサインだ。

「なんであの人に相談しなきゃいけないんですか!あんな風に私のことをイラやしい目で見る人になんて会いたくありません!」

ビルの中心が吹き抜けになっているこのビルは、いわば巨大な筒のような構造をしている。彼女の憤りに満ち満ちた声は辺りに響き渡り、周りの目線がこちらに集中する。

「ちょっと清水さん、声が大きいですよ」慌てて彼女の発言を制しようとするが止めることはできない。

「じゃあ少しお話しする時間をください。でないと私帰りません」

酔った勢いなのか、いつもより強硬な態度にたじろぐが、ここで妥協してしまっては今後も同じようなことが起きかねない。

「清水さん、さっきも言いましたけど仕事の相談なら来週にしてください。もう22時過ぎていますよ、家に帰らなくていいんですか?」

「だったら仕事抜き話の方がいいんです!それに家に帰ったって誰もいないし。もう耐えられないんです!」

私のほうに一歩二歩と目を血走らせながらにじり寄ってくる。このまま放っておいたら抱きついてきそうな勢いだ。彼女への底知れない恐怖と、こんな理不尽なことをされている怒りとで頭の奥がジンジンしてくる。

いったいなんなんだ、この女は。お前のプライベートのことなんて知ったことか。そんな悩みは自分で解決するか身内にでも相談してくれ。俺はあくまで仕事上でしかたなく相手をしているだけで、お前みたいな気味の悪い女にかかわりたくないんだ。

仕事柄多くの派遣社員とかかわる機会があり、その中にはメンタル不調を抱え、思いもよらない言動をとる人もいた。だが、ここまでおかしい女は初めてだ。

「すみません。仕事抜きの関係というのはお受けできません。今日のこの出来事を踏まえて私は清水さんの担当をおりさせてもらいます。後任は改めてお伝えさせてもらいます」

頭に血が上りきったところで逆に冷静になった。もう仕事なんて関係ない。一刻も早くこの女との接点を切らないと自宅までついてきかねない。

決然と言い切った私に、彼女はぽかんと口を開け、なぜだか不思議そうな顔をしてじっと私を見つめている。

勢いよく言い切りはしたものの、切り上げどころを失った私は目線を左右に泳がせる。すると少し先に見慣れた顔を見つけたのだった。

「部長!清水さんが相談があるということでいらしたみたいなんですが、私はどうしてもすぐ帰らなければいけなくて、代わりにお話を聞いてあげてもらえますか?あとで電話しますので」

清水敦子の顔を見つけてハッとした表情をしている永岡に声をかけ、こちらに呼び寄せる。戸惑う永岡と彼女をそのままに、私は逃げるようにその場をあとにしたのだった。

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