【20-1】朝の連続派遣小説『へばりつく』

【20】

「しばらくお世話になります」

慣れないオフィスに身を置くのはなかなかストレスがたまる。

大手町には仕事でよく来るが、うちの本社に立ち寄ることは滅多にない。ここに来るときは、たいてい気が重い用事であることが多いからだ。役員から承認をもらうためのおうかがいや社内研修など、私の中で本社イコール面倒ごとという刷り込みがされている。

東京駅にも程近いこのオフィスは大層気取った作りだ。受付には見目麗しい女性が知的な笑顔を貼り付けて座っている。壁面のヒューマンソリューション株式会社と書かれたプレートには間接照明があたり、さぞかし高尚な事業でもしているかのような印象を与える。

どうにもお高い本社の雰囲気が肌に合わない。所詮、派遣会社など営業会社だ。労働力の仲介業であり、人と人との調整役、泥臭いことこの上ない。「あなたのキャリア形成を支援します」だの、「御社の人事課題を解決します」だのといったお題目はともかく、仲介業らしく両者の心のひだにそっと分け入り、それぞれに満足してもらえるような血の通った仕事をしたいものだ。

清水敦子のストーカー行為から逃れるために新宿のオフィスへの出勤を禁じられた私は、この本社オフィスの法務部の空き机に間借りすることになった。

本社の連中なんて我々営業が食わしてやっているんだから怖気付く必要はないんだ、などと強がる気持ちとは裏腹に辺りをキョロキョロと見回し、知った人がいないか確認する。すると後ろから「田中さん」と声をかけられた。

「ああ、久しぶり」

声の主は以前に同じ営業部で働いていた後輩だった。営業としては頼りないところがあったがIT全般に強く、適材適所ということで数年前に情報システム部に異動になったのだ。

「どうしたんですか?こんなところに座って」

「いや、それが話せば長いんだけど、担当の派遣社員からストーカーみたいなことされててさ。避難してきたわけ」

「え、マジだったんですか、それ。ちらっと噂には聞いてたんですけど」

「あぁ、そうなんだよ。散々な目に遭っててね・・・」

「田中さんもそうだけど、永岡部長もひどい目に遭ってるみたいじゃないですか。その人から週末いろんな部署に永岡さんへのセクハラ被害の訴えがあったみたいで。いったい何がどうなっているんですか?」

全国の様々な部署や営業所への清水敦子のクレーム電話は早速社内の話題になっているようだ。私へのストーカー行為もさることながら、永岡のセクハラ疑惑はゴシップとしてはこの上ないネタだろう。私がストーカー被害を受けているのに、永岡がその派遣社員にセクハラするというのがいったいどんな状況で起こるのか、みな興味津々に違いない。

好奇の目を向ける後輩にうんざりし、「ここじゃなんだから、そのうち飲みに行ったときに話すよ」とうっちゃり、電話がかかったフリをして席を外した。

朝から遠巻きに見られているような気配を感じていたが、いろいろと噂に尾鰭がついて回っているに違いない。洗面所で顔を洗い、気持ちを持ち直そうと鏡を見る。

「田中さん」鏡越しに呼びかけてきたのは山下課長だ。

「ちょうどこのあと声をかけようと思ってたんだ」人懐っこそうな笑みを浮かべて、手を洗いながら話しかけてくる。

「本社なんてあんまり来ないから居心地悪いんじゃない?僕もここの雰囲気になれるのに時間かかったよ。なんか堅苦しいんだよね、ここの空気って」

山下は営業出身だ。いまは法務部でトラブル解決を専門としているが法務の専門家というわけではない。彼に回ってくるトラブルはこじれにこじれたものであり、あっせんや労働審判、訴訟といった係争にまで発展してしまったものや、派遣社員でも加入のできるユニオンにトラブルが持ち込まれ、労働争議になってしまっているようなケースも多い。

私のような営業現場にいる人間でもある程度の法的知識は持ち合わせているが、本格的なトラブル解決にはもっと踏み込んだ知識が必要で、山下は相当苦労をしたに違いない。

勝手のわからないオフィスで、彼に促されながら会議室に向かう。

「報告書よくまとまってましたよ。ありがとうございます。それにしてもひどい目に遭いましたね」

週末のうちに報告書や証拠となるメールなどをまとめ、関係者に送信しておいたのだった。初めて読んだ人に状況を理解してもらうことはもちろんだが、より対応の緊急度の高い状況だと伝えるために少し話を盛っておいた。

「えぇ、私と接点がなくなることでストーカー行為がなくなるといいんですけど。あと気になっているのが、私と永岡さんのことが社内でゴシップのネタになっているようで・・・」

山下は少し苦笑いをしながら答えた。

「どちらかというと永岡さんですかね。どうやら清水さんは田中さんのことよりも永岡さんのことを強く主張したみたいで。いろいろと噂に尾鰭はついているんでしょうが、田中さんにストーカーしている派遣社員に、なんで永岡さんがセクハラするのかってことが面白おかしく飛び交っているみたいです」

なるほど、思った通りの状況のようだ。永岡には悪いが私のことが悪く言われていないなら安心した。

「そうなんですか。みんなゴシップ好きですね」

「ここだけの話、永岡部長は専務派でも目立った人だったじゃないですか。そんな人がこんなトラブルに巻き込まれて、しかも全国に拡散しちゃったんで、社長派はこれを機にって動きになってるみたいですよ」

永岡を「目立った人だった」と過去形で表現するところに現状が現れている。派閥争いなんてどうでもいいから、目の前の問題をいち早く解決に導いて欲しいものだ。

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