【25】朝の連続派遣小説『へばりつく』

【25】

いつも暗がりの中で少しずつ指を進めて自分の居場所を確かめているような気がする。子供の頃からずっとそうだったかもしれない。

錆び付いた階段を登ったすぐ手前の部屋、玄関ドアの横にはビニールカバーをかぶせた洗濯機が置いてある。もう忘れてしまったが確か最後に「荘」とつく名前の古びた二階建てのアパートだった。当時は広く感じたけれど記憶をつなげていくと六畳間と四畳半くらいのダイニングキッチンだけだったから母と私の二人で暮らすには少し手狭だったろう。

小学生ながら、母が精神的にギリギリのところで生きている人だと感じていた。私が物心もつかない頃に離婚し、まともに養育費も払われない中、目立った才覚もない母親が身一つで私を育てていくのは大変だったのだろう。いつもイライラしていて、ちょっとしたことでこっぴどく叱られ、お仕置きと称して暗い押入れに閉じ込められた。

狭い部屋の割に広い押し入れは二人分の荷物を入れるには大き過ぎて、半分くらいしか使われていない。不用意に動くと何かにぶつかったり物が落ちて来たりする。私は恐怖に震えながら暗がりの中に指を這わせて安全な居場所を探した。

「反省したの?」夕飯が近くなると、母が荒々しい口調で襖越しに詰問する。なにが理由で叱られているかもわからない私は、とにかくこの暗闇から脱出したくて「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣きながら許しを乞うた。

そんなことを繰り返しているうちに、私はなにをすると母に誉められて、なにをすると叱られるのか、猫のひげのように常に敏感に空気を察することができるようになった。この小さな世界の絶対的な君主である母親に嫌われないように必死でいい子を演じた。

小学校四年生でここに引っ越してきた私は、もともとの引っ込み思案もあって全くクラスに馴染めなかった。いじめられもしないが、かまわれもしない。私の存在なんてあってないようなもので毎日気配を消して暮らしていた。そんな様子に気がついた担任の教師が個人面談で母に現状を伝えたのがきっかけだった。片親という負い目があったのか、母は学校での娘のありさまを、家庭での教育が良くないとたしなめられたと受け止めたようだった。

じっくりと私と寄り添うほど心の余裕のなかった母は「友達にもっと積極的に声をかけなさい」とか「学校ではもっと明るく振る舞いなさい」と、一方的に私に変わることを命じた。私は家でも学校でも常に演じ続けることを求められるようになった。

中学に入ってからも私は律儀に母からの指示を守っていた。クラスで二番目に目立っていた女子に取り入り、金魚の糞のようについて回った。自分の力で変わることができないなら誰かに頼ればいい。必死で媚び諂い、クラス内で一定の立ち位置を得ることで「昔は大人しかったのに中学になって少し垢抜けた子」という評価に変わった。私は本質的になにも変わっていないのに、人の見方なんであてにならないものだ。

中学二年になって上級生の男子から告白された。好きでもなかったが断る理由もなくて請われるままに付き合うことにした。男性と付き合うようになって感じたのはこれまでにない安心感だった。

「バスケ部の先輩と付き合っている私」「隣のクラスのカッコいいと評判の同級生と付き合っている私」「大学生の年上の彼と付き合っている私」「サークルで知り合った有名大学の学生と付き合っている私」

自分が何者なのかもよくわかっていない私は、付き合った相手の肩越しに、安心して世界を覗き見ることができるようになった。恋人が途切れることのない私をみて、友達は「敦子は恋愛体質だね」と揶揄したがそれは違う。好きになった男など一人もいない。

誰かを好きになったら自分と向き合わなければいけなくなる。だから相手から好きと言ってもらわなければいけない。私は私に興味を持つ男が、私になにを求めるのかということに勘が鋭かった。男がどんな仕草を、どんな目線を、どんな話し方を、どんな服装を好むのか。

二十代半ばの頃、一緒に住んでいた母が体調を崩した。母は相変わらずいつも余裕がなくイライラしていたが、女手一つで私を短大まで送り出し、一流と言われる会社に就職させたことで一安心をしたようだった。年齢もあり、職を変えて掃除婦として近所のデパートで働いていたが、これまでの過労がたたったのか、物忘れがひどくなったり、意味不明な言動が増えるようになり、日常生活が困難になり始める。診察を受けると若年性アルツハイマーであることがわかった。

母が母でなくなったら、私をかたち作る入れ物がなくなってしまう。

大人になってから自分が子供時代に母から虐待に近い扱いを受けてきたということを知った。母に対して持っている感情が愛情というものなのかはわからない。そもそも愛情というものがどんな物なのかもわからない。ただ、自分という存在の証明でもある母親が私のことすら忘れてしまったら、私はどうなってしまうのか。不安で仕方なかった。私も母と同じように生きながら死んでいるような存在になってしまうのではないかと思うと恐怖で眠ることができなくなった。

そんなときに夫に出会ったのだ。上司から誘われた集まりで声をかけてきた彼は自信に満ち溢れていた。仕事柄なのかガッチリした体躯に浅黒い肌。意思の強そうな太い眉に少し皮肉めいた口もと。

もし母が母でなくなっても、彼の肩越しになら安心して世界が見渡せそうな気がする。十人ほどの従業員を雇う会社の二代目だと聞いて、経済的な安定も得られることを確信した私は一も二もなく彼の求婚を受け入れた。

結婚生活は理想的なはずだった。二代目の若社長として妻を娶り、精力的に事業を拡大していこうという夫。それを家庭で後ろから支える私。妻という役割、社長夫人という地位を得た私は有頂天だった。

しかし現実はそううまくいかない。夫の事業が頓挫したのだ。日に日に目つきが険しくなり、口を開けば金の話をしている。一人二人と従業員を減らし、万策尽きたところで義父が金を工面して、なんとか会社は持ち堪えた。彼は責任を取らされ、経営から外された。これまで強気に責めることしかしてこなかった彼は失敗に弱かったようだ。すり寄ってきた人達から手のひらを返したように裏切られ続け、人間不信に陥った彼の表情から日に日に覇気がなくなり、毎日ダラダラと酒を飲みながら、呪詛を履き続けるだけの木偶に成り下がってしまった。

このままでは私をかたち作るものがなくなってしまう。探さなければ。また暗がりの中に指を這わせ、恐る恐る居場所を探すのだ。

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