【28-2】朝の連続派遣小説『へばりつく』

「え、もう行くの?こんな時間だよ」

時刻は22時、どこかホテルに泊まるにしても難しい時間だ。まさか夫の待つ自宅に帰るつもりだろうか。先ほどの夫からの呪いのような留守番電話のメッセージが頭をよぎる。いけない、あんな夫の元に戻したら殺されてしまうかもしれない。

「ちょっと待って!こんな時間だし、今から出ていかなくても。すぐ出て行かなくてもいいんだよ。このままずっと家出をしているだけじゃ何にも解決にならないって言っているだけで。一緒にどうするか考えようよ」

彼女は荷物をしまう手を止めてこちらを振り向く。なんだかいつもと表情が違うような気がする。上手く表現できないけれど、「表情がない」というのが正しいのだろうか。

「無理だよ」呟くように彼女は言った。

「なにが無理なの?やって見ないと分からないし、私も出来る限りのことはするよ」

責め立てるように問いただしても「無理だよ」を繰り返すばかり。それでも食い下がるように問い続けると、諦めたようにポツポツと話し始めた。

結婚して数年後、彼の会社の業績がうなぎ上りだった当時から、何人か女がいることは知っていた。しかしそれでも構わないと思っていたらしい。夫は妻という立場を与えてくれたし、お金に困ることもない、母親の施設の費用も文句一つ言わずに払ってくれる。

歯車が狂い始めたのは会社が倒産寸前にまで追い込まれてからだった。夫は経営責任を取らされて実の父親から更迭された。社員という身分は残し、仕事らしい仕事もしていないのに給料を払い続けているという意味では十分甘やかされているとも言えるが、いずれにせよ、これまでのような生活はできなくなった。

母の施設の費用は引き続き義父がこっそり出していてくれたが、生活を改めない夫の支出と収入のバランスが合うはずもなく、自分も働き始めることにしたのだという。

専業主婦として家という籠の中で大事に飼われていた自分が、再び社会で通用するのか酷く不安だったようだが、思いのほか評価されることも多く、彼女は徐々に自信をつけていく。そんな中で出会ったのが加藤という少し年上の上司だった。

この先もし離婚をしたとなれば、自分一人で母親の面倒を見て行かなければならない。今のまま暮らしていればそれは避けられるが、このままなんの見通しもなく奴隷のように過ごしていかなければいけないのか。仕事だけでなく、私生活の悩みまで聞いてくれる加藤の存在は彼女にとって暗闇の中に見た一筋の光明だった。

彼には妻がいたから、ふしだらな関係はなかったが、プラトニックな関係を保つ中で徐々に想いを通じ合せ、お互いに離婚して一緒になろうというのは共通認識のはずだった。しかしある時、夫にスマートフォンを盗み見され、彼との関係がばれてしまったのだという。夫は職場に押し掛け、彼を受付に呼び出し「うちの妻に手を出すな」と公衆の面前で詰め寄った。

職場での立場を失うことを恐れた彼は、まるで彼女が一方的に彼に想いを寄せているかのように話を仕立て上げ、ストーカー扱いしたという。次々と送られて来たというメールや、異常な数の着信を物証に、上司と結託して自分は被害者だと主張し、逆に夫に謝罪をさせたのだった。大恥をかかされたと、その時の夫の暴力はひどいものだったようだ。暴力に根をあげた彼女は、後日夫に連れられ、彼への連絡を一切行わないということと、けじめをつける意味で自ら退職をすることを彼の面前で誓わされたのだそうだ。

そして、今回初めて自分が家出をしたことで、また夫が職場に乗り込もうとする気配があるという。夫がどんな行動に出るかわからないが、いま頼りにしている彼との関係が引き裂かれ、何もかも失ってしまうことを恐れていた。

彼に連絡を取ろうとしても一切返答を寄越してくれない。もしかしたらすでに夫は彼に接触し、都合の良い話をして彼を丸め込んだり、浮気だと論って自分との関係を断つように迫ったりしているかもしれない。何より一刻も早く彼と連絡をとって、事情を聞き、今後二人でどうしていくのかを話し合いたいという。

彼女の話に色々な矛盾を感じつつ、反論をするほどの材料もない私は、うんうんと話を聞いていた。前回の加藤という男性の話と、今の派遣会社の営業マンの彼との話がごっちゃになって理解するのが大変だが、とにかく自分の人生に強い危機感を募らせていることだけは感じられる。

「わかった。私は敦子を応援するよ。どうしてほしい?」

昔からの友人がこれだけ困っているなら、やはり救いの手を差し伸べてあげなければいけないと思う。それが正しいかわからないけれど、こうなったらとことんまで付き合おう。

過度に男性に身を預ける生き方には共感できない。でも誰だって器用に生きられるわけじゃない。私だって誰かに頼ったり、もっと素直に人の意見を聞き入れることができる人間だったら、違った人生があったはずだ。

「なんでも良いんだよ。私になにをして欲しいか言ってみて」

乱雑に荷物をしまいかけたキャリーケースの前に座る彼女の正面に座り、覗き込むように問いかけた。心労で寝付けないのか、目の下にうっすらと青黒いクマが残っているのが痛々しい。薄い唇を開いて彼女は言った。

「私の代わりに彼に電話をして欲しい」

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